もののけの森とゆうこさん

2013年6月13日

 午後6時前、宿に戻った。灯る明かりに泊まり客が自分だけではなかったのだと安心しつつも少し緊張した。玄関を開けると何人かがキッチンに集まっていて「お帰りなさい。何か食べてきた?」と男性に声をかけられた。まだ何も食べていないことを告げると、「今からみんなで夕飯だから一緒にどう?」と。「ありがとうございます!」と勢いよく返事をし、予想外の展開をうれしく思ったものの少し戸惑った。総勢10人くらいだろうか、こんなに人が泊まっているとは思わなかったし、そもそも“みんなで夕飯を作る”という考えが頭に存在していなかったからだ。それに私は初対面の人と話すのがあまり得意ではない。部屋に荷物を置きにいっている短い間、「どうしよう……」と頭がぐるぐる回った。

 

 夕飯は鍋。白菜や長ネギ、もやしなどの定番野菜に鶏肉や豚肉、魚が入り豪華なものになった。さらにもう一品。サバを茹でて燻した屋久島名物“さば節”をほぐしたものと海藻、スライスオニオンをマヨネーズ、ポン酢で和えたサラダも完成した。またそれぞれのつまみを持ち寄り食卓がにぎやかになる。誰かの差し入れか、宿に置いてあったものかは分からないが、地酒・三岳で乾杯。
 名前と出身地くらいの簡単な自己紹介をすませ、おのおの箸を鍋へと、つまみへと向かわせる。「あそこの森はよかった」「穴場の滝壷がある」「今まで旅した場所でお気に入りはここ」など屋久島話、旅話に花が咲く。泊まり客の中で一番若手だった私は、そんな話をできる限り聞きこぼさないように努めた。旅の先輩たちから発せられる言葉はどんなガイドブックよりも楽しそうだし、おいしそうに感じたからだ。
 私が宿に戻ってきたときにはすでに仲がよさそうな雰囲気だったので、グループで来ている人達だとばかり思っていたら大半は一人旅だった。職業も年齢もみんなバラバラ。それをあえて聞くわけでもない。みんなで鍋をつつき、お酒を片手に旅話をする。「旅が好き、屋久島が好き」それだけあれば会話は尽きない。誰がどこのだれで何をしているかとかいうバックグラウンドはこの空間では必要ない気がした。「ああ、これが旅なんだ。一人で旅をする醍醐味なんだ」とその心地よさに思わず笑った。


 予定が何もない屋久島2日目。昨夜先輩たちから情報を収集し、興味を持った白谷雲水峡に足を運ぶことにした。ガイドブックにも度々写真が掲載される人気スポットだ。アニメ映画のモチーフにもなり、その映画の名前から“もののけの森”とも呼ばれる場所があるらしい。道はそれほど険しくなく、道のりも4時間ほどの初心者向けトレッキングコースという。
 最寄りのバス停から白谷雲水峡の登山口に向かう。満員バスに揺られること30分ほどで到着した。平日の朝でも人が多く、ガイドを付けたツアー客や海外からの旅行者も見られにぎわっていた。トイレと準備運動をすませた9時、登山開始。
 まず最初に出合ったのが「飛流(ひりゅう)おとし」だ。落差のある大きな滝とは違って迫力には欠けるものの、花崗岩の割れ目にそってしぶきを飛ばしながら勢いよく水が流れる。屋久島は月に35日雨が降るといわれるほど雨が多い場所。その豊富な雨量がゆっくりと地にしみ込み、森を豊かにし、生命を育む。森に入ってすぐにその圧倒的な力を感じた。明確な“何か”があったわけではない。しかし見上げれば空を覆い尽くすほどの緑、それらが風に揺れ擦れる音、湿った木々から漂う匂いは強烈だった。
 そこから進むとほどなく、道は整備された楠川歩道コースと原生林コースに分かれる。どちらが人気、ということはなく体力に合わせて選べるようになっているようだ。ほんの少し考えた後、原生林コースを行くことにした。足首までサポートされている登山靴でざっくざっくと進んでいく。ときには団体客に向かって木々や森の説明をするガイドの話に聞き耳を立てながら。しばらく歩き、もののけの森に到着した。木々や岩をびっしりと覆い尽くす苔。しっとりと濡れた苔が木漏れ日に照らされ、神秘的な景色が広がっている。森全体がここまで苔に覆われている場所は屋久島以外にあるのだろうかと思う。実はここに来る半年ほど前、夏休みを利用して富士山の山小屋で1ヶ月間アルバイトをしていた。8.5合目、3450mの山小屋の周囲は草木が生えない赤茶色の世界だった。比べても全く無意味なこととは分かっていても、あまりにも世界が違いすぎて同じ日本とは思えないほどだった。苔に触れるとクッションのようにふわふわしてやわらかい。樹齢2000年級の木があちこちに当たり前あった。美しく巨大で、力強い森。目に映るものがあまりに新鮮で刺激的だ。
 もののけの森を抜け歩きながら写真を撮っていると「撮りますよ」と声をかけてくれる女性がいた。彼女も一人だったので私も写真を撮った。進む道は同じ、追い越し追い越され写真を撮り合っているうちに次第に仲良くなった。

 

 彼女の名前はゆうこさん。7月にある皆既日食を見るため屋久島にやって来て、それまでここで暮らし看護士をしているという。年齢は25歳くらいだろうか、明るく短い髪にパーマをあてていて、いかにも元気そうなお姉さんだった。そろそろお昼どき、少し先にある太鼓岩まで行き一緒に昼食をとることにする。少し傾斜のある道を進むと今までずっと木々に囲まれていた視界が開けて大きな岩が現れた。岩肌を登っていくと15人以上は座れそうな大きな一枚岩。ザックを置き腰を下ろす。ここまでずっとなだらかな道程だったが、足を投げ出してみると心地よい疲労感が広がっていった。天気がよくて見晴らしがいい。遠くには太忠岳(たちゅうだけ)が見え、その頂上にそびえる天柱石がまるで親指を立てて「よく頑張った」と言っているように見えた。

宿で作ってきたおにぎりを頬張る。具など何も入っていない、塩だけで握った極めてシンプルなものだったが、程よい疲労と景色のせいか思った以上においしいと感じた。鮭や卵焼き、ウィンナーが入ったお弁当でなくても十分だ。寝そべって昼寝をしたり写真を撮ったり、贅沢な時間を1時間ほど過ごし下山に向かう。「下山した後はどうするの?」とゆうこさん。相変わらずノープランだ。それなら原付バイクでも借りて屋久島を散策しよう、と誘ってくれた。車に乗り慣れていない私はバイクにも乗り慣れてなかったが、もちろん快諾した。

 

 午後3時ごろに山を下りて出発直前のバスに飛び乗る。バイクを取りに先に帰ったゆうこさんと宮之浦で合流し、レンタルバイク屋に意気揚々と向かう。しかしながらバイクの運転は車よりもひどい初心者ぶりでヘルメットをかぶることさえ戸惑ってしまう。それでもやはり旅の効果か、たとえ公道を走ったことがなくても挑戦しようという気になるから恐ろしい。ゆうこさんはリアキャリアに収穫カゴを付けた、いかにも農家のおじさんが乗っていそうなカブにまたがり発進。その後をぎこちなくエンジンをかけ追いかけようとするが、アクセルを握る加減が分からず急発進。「怖すぎる……車よりも怖い……」と怯んだのもつかの間、すぐに恐怖心が走ることの快感に変わっていった。走ることで生まれた風が身体をくすぐる。それは初めて味わう気持ちよさだった。
 最初に向かったのは一湊にある「一湊珈琲焙煎所」というカフェ。豆の焙煎がメインで時間があるときにカフェとして営業しているらしい。不定期で営業しているらしく「空いているといいなあ」とゆうこさんが言う。駐車場にバイクを置いて入口に向かう。ラッキーなことに「OPEN」の看板が見えた。
 夫婦2人で経営しているこぢんまりとした店内にはコーヒーの香りが充満していた。入口から一番奥の大きな窓から滝の見える席に座る。本当は苦手だったのに、格好をつけてコーヒーを注文した。
 ここでゆうこさんと交わしたのはたわいもない話だったと思う。屋久島の生活や旅の話、看護士として働くことなど、おしゃべりは止まらない。滋賀県出身で旅好きの彼女は資格を生かし働きながら各地を転々としているらしい。皆既日食を見た後はどうするのか、と訊ねたら「まだ何も決まってないよ」と笑って返事をした。
 カフェを後にして海が見える穴場スポットに移動した後も、私の大学生活の話から進路相談まで会話が尽きることはなかった。この旅が終わって月が変われば、私は大学3回生になる。みんなと同じようにスーツを着て就職活動を始める未来が当たり前のように待っていた。否応なしに将来を考えなければならない。遊ぶのは大学生まで、社会に出ればただひたすら働くのみ。それも自分が興味ある職に就けるかも分からない……。そのレールから外れるなんて考えることすら恐ろしかった。そんな私の目に映る彼女はあまりにもまぶしく、驚きと憧れを抱くほどだった。
 日暮れ時、私は宿に彼女は自宅に帰る。楽しい時間というのは本当にあっという間に過ぎていく。たった半日、それだけなのに密度があまりにも高い。旅での出会いがこんなにも心に響くものなのだと初めて知った。

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