屋久島上陸

2013年5月01日

 11時前、宮之浦港到着。快晴。屋久島について調べてきたことと言えば、フェリーの時間と天気、それと2日目に予定しているトレッキングのことだけだった。あとは全くのノープラン。あまり詰め込まない方がなんだかおもしろいことが起きそうな気がしたのだ。「さて、これからどうしようかな……」何はともあれ宿探しだ。それを決めないことにはちょっと落ち着かない。フェリー乗り場すぐの観光案内所でもらった宿リストを頼りに電話をかける。「晴耕雨読」の名前に惹かれて選んだ宿で2泊分の予約をし、3泊目は「やくしま89」という宿に決めた。どちらも「素泊まり」宿だ。


 「スドマリって何だろう……」そうぼんやり考えながら街を歩く。天気がよくて気持ちがいい。3月なのにもう上着はいらない陽気だった。携帯電話で調べたところによると「素泊まり」とは食事がついていない宿のことを言うらしい。家族と泊まる旅館やホテルくらいしか経験がない私にはその聞き慣れない響きがほんの少しかっこよく思えた。
   商店に寄ってお菓子を買ったり、写真を撮ったりしながらお昼過ぎに「晴耕雨読」に到着。1泊3500円と格安。雰囲気は民宿のような感じで畳の個室が数室あった。玄関を入ってすぐのところにキッチンと食事スペースがあり、宿泊客はそこで食事を作るか外に食べにいくらしい。あとはトイレと風呂の小さな宿だった。
   「今日はこれからどうするの? 決めていないなら車を借りて島を1周するといい」とオーナー。ありがたいアドバイスに、さっそく車を手配してもらう。屋久島の主要道路は島を囲むようにして伸びる県道77号線と78号線の2つしかないのでいくら方向音痴でも迷うことはない。ただひとつ、大きな問題は運転免許取得以来ほとんど実績を積んでこなかった私の運転技術……。いくら呑気な島の1本道とはいえ、知らない土地での運転はもはや大冒険に近かった。
   それでも島到着に心が大きくなったのか、オーナーに借りたガイドブックを頼りになんの迷いもなく、シルバーのライフにエンジンをかけた。


 島一番の街、宮之浦を抜け一湊(いっそう)に向かう。久しぶりの運転、不安を抱えつつも楽しい。知らない道をペーパードライバーが走るのは実に危険だが、これでもかというほど気分は高揚していた。けれども走り進めるうちに、カーステレオのつけ方がわからず音のない車内がなんだか淋しく思えてきて、適当なメロディにのせて大声を上げて歌った。一人カラオケ状態だ。
   一湊はサバ漁が盛んな漁師町。鮮度を保つため、獲ってすぐ首を折り血抜きをした「首折れサバ」が有名だ。刺身でも食べることができ、引き締まった身のコリコリとした食感がお酒と相性抜群……そうガイドブックは力強く訴えてくる。これは食べないわけにはいかない。屋久島の焼酎「三岳(みたけ)」とともに味わえたらとても幸せな時間になるだろう。そう思うと一人きりの車内の温度が上がった気がした。
   漁師町を抜け向かったのは少し山に入ったところにある銭湯「大浦の湯」。周辺には特に何もなく銭湯がぽつんとあるだけだった。番台でお金を払い中へ入る。畳の休憩スペースには「ご自由にどうぞ」と書かれた札と一緒にやかんが置いてあった。2、3人入るだけでいっぱいになってしまいそうな小さな浴室。女湯には誰もおらず貸し切りだった。男湯からは大学生の旅行者らしき声がちらほら。
 小さな町の公民館を思わせる内装にどことなく漂う哀愁。それはディスプレイされている褐色がかった招き猫をはじめとする置物がそうさせるのか、建物自体が持つひなびた空気感がそうさせるのかは分からなかったがなんだかそれが心地よかった。観光化されている場所よりも地元の人の生活を垣間みることのできる場所に心がくすぐられるような気がした。そう感じるのは一人だからだろうか。湯につかりながらぼんやりそんなことを考えていた。


 火照った身体をやかんのお茶で冷まし、さっぱりした気分で次に向け出発したとたん、アクシデントが待ち受けていた。周りをよく確認せずに車を後退させてしまい、排水溝にまんまとはまってしまったのだ。初めは事態が呑み込めずにいたのだが、アクセルを踏んでも車が動かないことに次第に焦りを感じて車を降りた。じわじわと絶望にも似た感情が広がっていく。今思えばなんてことはない、声をかけ誰かに手を借りればすむことだが、冷静さを欠いたペーパードライバーだ。車が溝にはまるということは大事件そのもので、そんなことは全く頭に浮かばない。
   「ああ、どうしよう……」そう考える間もなく再び車に乗る。アクセルを踏む、抜け出せない。もう一度……今度は先ほどよりも強くアクセルを踏む、それでも抜け出せない。「ヴォーン」という大きな音が響き渡り、砂煙が上がるばかりだった。このときすでに半泣きの20歳。ただならぬ気配を感じたのか、無口な銭湯の管理人さんが出てきてくれた。車を押してもらい、私はアクセルを踏み込む。ようやく車が動きだし、なんとか溝から抜け出すことに成功した。安堵と恥ずかしさと感謝でいっぱいになる。全身全霊を込めてお礼を言い、半泣きのまま再出発した。


 ほっと安心したのはつかの間、道はどんどん島一番の難所・西部林道に近づいていく。長さ約12km。道幅は車が1台走れる程度しかなく、しかも曲がりくねって見通しがきかない。さらには観光バスも走るという。ペーパードライバーがびくびくしないわけがない。それでも島1周を遂行するためには前に進むしかないのだ。何とかバスとの遭遇は回避できるよう強く念じながらゆっくりと進んでいく。
   道路の両脇には木々が生い茂り、緑のトンネルを走っているみたいだ。窓を全開にして走る。風が心地よく、木漏れ日がまぶしい。土と樹木の混じった匂いに春の訪れを感じた。途中、ヤクシカとヤクザルが顔を出す。サルのほうは人に慣れているのか、車がかなり近づいても逃げることはなくむしろ「エサをくれ」といわんばかりの顔をしていた。
   思いのほか快調なドライブ。半分くらい走っただろうか、「このまま何事もなく進めるのでは」と気を緩めたところに、きちんと試練が用意がされていた。対向に観光客を乗せた大きなバス……。もちろん直線道路でもない道で車を後退させるような技術は持ち合わせていない。なんとか端に寄れるだけ寄って後はバスが勝手に過ぎるのを待った。緊張の一瞬、バスとの距離数cmでのすれ違い。バスの運転手がこちらにニラミをきかせているような気もしたが私はただただ前を向くばかりだった。


 島を半周したところで、日が傾き始めた。右手にはひたすら海。3時間のドライブ中、車内ではいい加減な歌をずっと口ずさんでいた。ガラガラになった喉をサビの浮いた自動販売機で購入したお茶で労わりながら県道77号線を走る。海の匂いをのせた少し肌寒い風が車内に充満する。「ああ、屋久島に来たんだ」思い切り息を吸ってようやくそう実感した。フェリーを降りても、宿に荷物を置いても、車に乗っても、何となく浮ついた気分のままだった。自分が島の日常に入り込んでいることがおかしく、またそれは現実ではないような気がしていた。湿度を含んだ潮風と薄っすらオレンジ色に染まる空は少し淋しげに見える。目に映るそんな風景はハプニングあり、スリルありで盛り上がった気持ちをみるみるしぼませた。「宿に向かおう」車のライトをつけドライブの終わりを急いだ。旅はまだ始まったばかりだ。

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